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2015年6月6日那覇日帰り旅行 [2015June首里城日帰り旅行]

仕事のストレスはmaxにも関わらず、休みを取ることも叶わず、昨日、日帰りで那覇に行ってきました。
旅行と言えるほどのものでもないので、blogのカテゴリをどうしようかと思ったのですが、一応、日帰り旅行カテゴリを作りました。

時間が限られた中、那覇滞在は3時間強。そこで観光先は、行ってみたかった首里城に絞りました。
つまらぬ旅行記ですが、ご興味ありましたら、読んでいただけたら嬉しいです。

出発は、羽田12:25発のJAL915便。
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日帰りのくせに出発遅すぎなんですが、早起きできる自信は無く、ちょうど国内線ファーストクラスが取れたので、この便をチョイス。
ところが、那覇空港混雑のため、那覇到着は約30分遅れ。これはマズイな、と思いながらも、最近、那覇空港で重大インシデントがあったことを考えれば、無事に着陸できただけでも良しとしましょう。

初の沖縄本島上陸(実は先週も那覇に行ってきたのですが、旅行と言えるものでもなかったので)。
ゆいれーるに乗車です。
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ゆいれーるの終着駅が首里城。
そこから速足で15分ほど歩くと、あの有名な守礼門です。
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そういえば二千円札って見なくなりましたねぇ。

時間が無いので足早に。なにせ、首里城に居られるのは15分そこらでしたから・・・。

こちらは、首里城の城郭内へ入る第一の正門で、「歓会門」。中国からの使者を歓迎する意味でつけられた名前だそうです。
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やっぱり日本の城とは趣がまったく異なりますね。城壁がとても滑らかな造り。生えてる植物も違いますしね。
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こちらは、城郭最後の門である奉神門です。この先は入場料が必要です。
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さぁ、世界遺産でもある首里城正殿です。
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実に鮮やかです。
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赤瓦が特徴的な首里城。当時の琉球王国において赤は、「高貴な色」であり、庶民が赤瓦を使うことは禁じられていました。赤瓦の使用が解禁されたのはたしか明治だったかな?庶民はこぞって赤瓦を屋根にのせたそうです。たしか、NHK-BSの「美の壺」という番組でそんなことを言ってた気がします。間違ってたらごめんなさい。

中には多くの資料展示等もあるようなのですが、正殿到着時点でタイムアップ。3分ほどしか居られず、帰路につきます。

ゆいれーるの首里城駅からの景色。
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えー、ゆいれーる。当たり前なんですが、首都圏と同じ感覚でいてはいけません。
電車はなかなかやってきません。ゆっくりと待つのが吉です。とはいえ飛行機の時間が迫っていてはイライラします。いけませんねぇ。

そんなわけで、駆け足での那覇旅行でした。
すでに梅雨に突入した沖縄。この日の気温はそれほどでもありませんでしたが、30分程度歩くだけで、体中が汗まみれ。地図を印刷した紙もしなしなになってしまいました。
6月以降の沖縄での徒歩移動は無謀ですね。。。

ちなみに、ゆいれーるには1日乗車券があります。
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そして、この一日乗車券を持っていると、首里城チケットが割引になります。

普通に首里城往復すると660円。首里城の通常チケットは820円。合わせて1480円也。
これに対して一日乗車券は700円。首里城の割引チケットが660円。合わせて1360円也。120円の節約になります。


ところで、学校で沖縄の歴史を学んだのは第二次世界大戦の沖縄戦くらいのものだったと記憶しています。
そして未だに基地問題が存在し、沖縄の犠牲のもとに今の日本があると。

それは事実として、八重山や宮古に焦点をあてると、新たな歴史が見えてきます。
当時の琉球王朝が繁栄したのは、八重山・宮古の植民地支配があったからだといえます。

西暦1400年代でしょうか、豪族が治めていた八重山・宮古は、琉球の軍隊によって支配され、奴隷のような扱いを受けます。
これに立ち上がったのが、八重山の英雄、オヤケアケハチです(1500年、オヤケアケハチの乱)。
琉球王朝はなんと、この乱を宮古の豪族たちに平定させます。

そして1600年に入って、悪名高きあの「人頭税」が始まります。
人頭税とは、収入に関わらず、頭数に応じて税を取る仕組みであり、無収入であっても課税対象になります。
しかも人頭税は、沖縄本島にはなく宮古と八重山に課された差別的な税金でり、それは非常な重税であり、琉球王朝の役人の取り立ても厳しく、八重山・宮古の人々は大変に苦しめられました。

人頭税についてはいろいろな伝承があります。有名なのは、与那国島に伝わる話。
これは、妊婦に対して、幅が1~3m、深さが約7mもある岩の割れ目を跳び越えさせ、跳び越えることができない妊婦は胎児共々転落死させた、というものです。
人頭税は、健常者、非健常者に限らず、また妊娠していようがいまいが、15歳になったら総て等しく課税の義務を負わされました。そのため、働けない弱者を排除し人口を調節する必要があったのです。

この人頭税から逃れるため、八重山の人々は島から脱出して、南の島を目指しました。
これが、パイパティローマ伝説です。南の島には、永遠の楽土「ニライカナイ」があると信じていたのですね。

人頭税は、明治に入ってようやく廃止されました(1903年)。つまり、265年もの間、八重山・宮古の人たちは人頭税に苦しめられたのです。

人頭税が、なぜ沖縄本島には適用されず、八重山・宮古だけに適用されたのか。
これはやはり、琉球王朝にとって八重山・宮古は植民地に過ぎず、何をしても許される、と考えていたから、と言われています。
人頭税廃止にあたっては、かつて、オヤケアケハチの乱で八重山と戦った宮古の人たちの多大な努力があったそうです。

そんな歴史的経緯から、沖縄本島の人々と、八重山・宮古の人々との間には、未だに溝が存在するとも言われています。基地問題に関しても、本島と、八重山・宮古との間には認識の違いがあるようですね。

かつて、こんな悲しい歴史が沖縄にあったということを、私は八重山に通うようになってから知りました。
今回は、うろ覚えの知識で書いてしまいましたが、八重山・宮古の歴史についてもう少し整理して、改めて記事にしたいと思います。

※本記事の年代は、八重山手帳からの引用です。
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