八重山手帳 [沖縄]
2011年の八重山手帳が届きました。
月齢や干潮・満潮の時間まで載っています。
スノーケリングや星空撮影のスケジューリングにぴったりです。
石垣島からの高速船の時刻表や、島の簡単な地図も載っているので、
会議中に眠くなったり飽きたした時の暇つぶしにも最適です。
八重山手帳は「島のもの屋」さんで購入できます。
すぐに売り切れるのでお急ぎください。
月齢や干潮・満潮の時間まで載っています。
スノーケリングや星空撮影のスケジューリングにぴったりです。
石垣島からの高速船の時刻表や、島の簡単な地図も載っているので、
会議中に眠くなったり飽きたした時の暇つぶしにも最適です。
八重山手帳は「島のもの屋」さんで購入できます。
すぐに売り切れるのでお急ぎください。
尖閣諸島 [沖縄]
尖閣諸島のビデオがyoutubeに流出しましたね。
この映像が本物だとすると、まずは政府の情報管理に大変不安を感じます。
その一方で、この映像をyoutubeにアップしてくれた人には、よくやってくれた、とも思います。
このような重大な問題の真実を国民に知らせることなく問題の幕引きをしようとしていた政府・民主党。
彼らにこの日本を任せていてよいのか、改めて考えさせられます。
インターネットもまた、大きな役割を果たしていると感じます。
もし、ネットがこれほど普及しておらず、仮にこの映像がテレビ局に持ち込まれたとして、
いったい日本のテレビ局がこの映像を放映したでしょうか?
でも、意外とこの映像を流出させたのは民主党自身かもしませんね。
中国に配慮して正式には公表できない、でもそれじゃ支持率も落ちる。
じゃぁ、誰かが勝手に流出させたことにしちゃえ、映像を見れれば満足するだろ、って感じで。
当事者意識の無い民主党ならやりかねません・・・。
尖閣は、八重山列島から北へ約150km。沖縄県石垣市の一部なんです。
この映像が本物だとすると、まずは政府の情報管理に大変不安を感じます。
その一方で、この映像をyoutubeにアップしてくれた人には、よくやってくれた、とも思います。
このような重大な問題の真実を国民に知らせることなく問題の幕引きをしようとしていた政府・民主党。
彼らにこの日本を任せていてよいのか、改めて考えさせられます。
インターネットもまた、大きな役割を果たしていると感じます。
もし、ネットがこれほど普及しておらず、仮にこの映像がテレビ局に持ち込まれたとして、
いったい日本のテレビ局がこの映像を放映したでしょうか?
でも、意外とこの映像を流出させたのは民主党自身かもしませんね。
中国に配慮して正式には公表できない、でもそれじゃ支持率も落ちる。
じゃぁ、誰かが勝手に流出させたことにしちゃえ、映像を見れれば満足するだろ、って感じで。
当事者意識の無い民主党ならやりかねません・・・。
尖閣は、八重山列島から北へ約150km。沖縄県石垣市の一部なんです。
八重山と三線 [沖縄]
三線(サンシン)は沖縄を代表する伝統的な楽器です。
ヤマト三味線が猫の皮を張っているのに対して、三線では蛇の皮が使われています。
八重山地方に三線が伝わったのは16世紀頃だと言われています。
当時、首里王府は勢力盛んで、八重山・宮古に対して服従することを求めていました。
八重山は、このような首里王府に対して反抗しました(オヤケアカハチの乱、西暦1500年)。
しかし、首里王府は軍隊を派遣し、これを平定。八重山は琉球王国の一部とされます。
首里王府からは役人が八重山に派遣され、それと共に三線もまた八重山に持ち込まれたとされています。
もともと琉球では、三線は役人達の楽器でした。
というのも、琉球は大陸と冊封関係にありました。
冊封とは、中華王国に対して貢物をするのに対して、中華王国から称号等の権威を授かり、
中華皇帝との君臣関係を結ぶものです。
中華王国からの使者は冊封使と呼ばれ、琉球王国はこれを厚くもてなす必要がありました。
このもてなしで欠かせなかったのが唄や踊りでした。
ですから三線は、宮廷音楽として発展し、とても洗練されていました。
つまり三線は、民衆のための楽器というよりも、役人のための楽器、もっと大げさに言えば
外交のための道具だったのです。
このような音楽は、今では琉球古典と呼ばれています。
八重山には、ユンタを初めとして八重山独自のたくさんの唄がありました。
ユンタとは、簡単に言えば労働歌のことで、畑作業の間に歌われた唄です。
八重山の人たちは、このユンタ等に三線の伴奏をつけて歌うようになり、徐々に民衆の間にも
広がっていったとされています。
ヤマト三味線が猫の皮を張っているのに対して、三線では蛇の皮が使われています。
八重山地方に三線が伝わったのは16世紀頃だと言われています。
当時、首里王府は勢力盛んで、八重山・宮古に対して服従することを求めていました。
八重山は、このような首里王府に対して反抗しました(オヤケアカハチの乱、西暦1500年)。
しかし、首里王府は軍隊を派遣し、これを平定。八重山は琉球王国の一部とされます。
首里王府からは役人が八重山に派遣され、それと共に三線もまた八重山に持ち込まれたとされています。
もともと琉球では、三線は役人達の楽器でした。
というのも、琉球は大陸と冊封関係にありました。
冊封とは、中華王国に対して貢物をするのに対して、中華王国から称号等の権威を授かり、
中華皇帝との君臣関係を結ぶものです。
中華王国からの使者は冊封使と呼ばれ、琉球王国はこれを厚くもてなす必要がありました。
このもてなしで欠かせなかったのが唄や踊りでした。
ですから三線は、宮廷音楽として発展し、とても洗練されていました。
つまり三線は、民衆のための楽器というよりも、役人のための楽器、もっと大げさに言えば
外交のための道具だったのです。
このような音楽は、今では琉球古典と呼ばれています。
八重山には、ユンタを初めとして八重山独自のたくさんの唄がありました。
ユンタとは、簡単に言えば労働歌のことで、畑作業の間に歌われた唄です。
八重山の人たちは、このユンタ等に三線の伴奏をつけて歌うようになり、徐々に民衆の間にも
広がっていったとされています。